アントニオ猪木
- 2022年10月08日
- ブログ
先日、アントニオ猪木さんが亡くなりました。
私はプロレスが大好きです。
子供のころ、ゴールデンタイムにテレビ朝日で
新日本プロレスを見てから、
興味を持ち始めました。
アントニオ猪木は負けない!!
大きな外国人相手に、苦戦しながらも、
最後は必ず勝つ!!
なんと爽快なことであっただろうか?
子供心に夢中になりました。
プロレスの面白さを
一番最初に教えてくれたのが
アントニオ猪木さんでしょう。
当院の待合室に
プロレススーパースター列伝
ジャイアント馬場、アントニオ猪木
という漫画があるので読んでみました。
内容ですが猪木少年時代のことを書きます。
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猪木少年が14歳の時、
一家で日本からブラジルに移民しました。
当時猪木家は
祖父から父親の代まで手広く石炭商をやっていましたが、
時代は石炭から石油へ、それで時代の波に飲まれ
新天地をブラジルに求めました。
祖父がブラジル行きを決めました。
しかしブラジルへの航海の途中、祖父が腸閉塞で亡くなったのです。
自分で決めたブラジルの地へ
祖父は足を踏み入れることが出来なかったのです。
一家は全員フロンティア精神と武道精神の持ち主でした。
新天地でも負けずに頑張ることを誓いました。
一家を待っていたのはコーヒー園の仕事、
朝から晩まで汗まみれ泥まみれになって働きました。
想像を絶するほどの苦労でした。
まるで奴隷のように。
やがてコーヒー園の仕事から酪農の仕事に変わって、
馬や牛も飼うことができ、
やっと人間らしい生活が出来るようになりました。
ブラジルでの労働が猪木少年をたくましくしていきました。
兄に空手を習い、陸上競技では砲丸投げをやってました。
そして砲丸投げの選手として頭角を現し、
全ブラジル大会に出場し優勝しました。
その話題はブラジルに住む日系人の間でも有名になりました。
そして猪木少年は砲丸投げで
オリンピックを目指すことにしました。
そしてブラジルの陸上競技の会長からサンパウロ行きを薦められ、
オリンピックに向けて励むことになったのです。
昼間は高校に行き授業と砲丸投げの練習、
そして日系人の営むサンパウロ市内の市場で
夜中から明け方まで仕事をしてました。
しかし転機が訪れます。
プロレスラーの力道山が
ブラジル日本人移民50年祭の行事に招かれて、
ブラジル各地を転戦していたのです。
猪木少年は力道山の目にも止まって、
呼び出されました。
猪木少年にとっては、街頭のテレビで小学校、中学校の頃、
プロレスを見て力道山と言えばあこがれの存在でした。
そんな雲の上のような人と
会うことが出来るなんて信じられませんでした。
力道山は「俺にこの少年を3年間あずけてくれないか?」と言って
自分一人で一方的に決めてしまいました。
猪木少年は正直迷います。
しかし家族たちは快く猪木少年を送り出すことにしました。
ブラジルに骨をうずめるつもりで、
砲丸投げでオリンピックを目指していた猪木少年は、
ブラジルから日本へ逆輸入。
人生何が起こるかわからない。
人間の運命なんてわからないものだが、
一度やると決めたら後には下がれない。
決心を決めてプロレスラーとなりました。
当時の猪木少年の体格は192㎝、90㎏。
大きな体格。
しかし日本についてみると
自分よりはるかに大きい、
なんと2m5㎝の大男がいた。
馬場正平のちのジャイアント馬場でした。
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